写真展開催のお知らせ[2015年01月17日(土)]
五十里は今日は小雪模様、警備犬のダムといかり娘も、玄関前で暇そうにしています。
ここ五十里地域も静かで、昨日の夜は鹿が泣いている声も聞き取ることができました。
星は綺麗で、宝石が降ってくるようです。
さてへいじからのお知らせですが、春(5月連休位)~秋(11月末頃)にかけての長い期間になりますが、「五十里・三依ふるさと写真展」を開催するつもりです。
ここ五十里は、江戸時代に日光大地震による葛老山の崩落で、川が堰き止められ、天然のダム湖となり、五十里の住民が避難のため全村移転ということを経験しました。その後の、ダム湖決壊で住民はまた戻ったのですが、今度は終戦後すぐに「五十里ダム」建設という国策にしたがいざるを得ず、二度目の全村移転を経験しました。多くの住民が、宇都宮、今市、那須、茨城など周辺に移転しました。昭和31年にダムは完成し、当時日本一のダムとして、多くの見学者が見えました。
ダム建設発表から移転して約70年、五十里周辺は毎日静かに風景を映していますが、住人は一人減り二人減りして、今五十里で絆を結んでいる人は、5家族・10人程度になってしまいました。この前、移転後の五十里分校跡に行ってみましたが、高台にあり村一番の景観であったろうと思われる場所です。ここで多くの子供たちが学び、巣立ち、職を得、そして結婚し、子供が生まれ、今は孫さんと一緒に幸せに暮らしていると思います。
お盆や彼岸などに、孫さんや息子・娘と一緒にお墓参りにきます。当家で食事をしていく方もあります、当家には横4㍍x縦80㌢程度の大型の「旧五十里宿」の絵図が飾っていますが、これを見てじいちゃんの家はここだとか、学校はここだとか、指を指して家族に説明しています。孫さんも、「じいちゃん、どんな家だったの」とか「何人位住んでたの」とか、聞いています。じいちゃんは一生懸命に説明しています。帰り際、私に旧住人の人が言います。「五十里はそれはそれは、住みやすい良い場所だった」という言葉です。ふるさとを離れて、もはや70年、でも「ふるさとは未だ消えず」です。
今回写真展を開くのは、この離れた住人の方々にもう一度自身のふるさとを再確認してほしい。孫や後継者に、自分のDNAである五十里を忘れないで伝えてほしい、との思いが強くあるからです。五十里地区はもはや限界集落を超えてしまいました。いずれ、数年以内位に集落としての単位にならない時代が来ると思います。この写真展を開催して、観光客の方は、「日本の原風景」移転した方は「ふるさと再確認」をしてください、多くの方々のおいでをお待ちいたしています。
正式な日程は、後便でお知らせします。五十里は今日も静かです。